2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

経済・政治・国際

2012年7月20日 (金)

鳩山元首相がデモに参加

鳩山元首相が脱原発デモに参加 「思いは同じ」

ようわからんなあ。

鳩山さんがかつて原発を推進していたとか、CO2削減目標をどうことか、それは置いときましょう。(本当は置いといちゃいけないけど、まあとりあえず)

で、現在の鳩山さんが脱原発の考えを持っているのもよしとしましょう。

与党の議員でなおかつ首相経験者がデモに参加するって何でしょ? 自分の立場と仕事が何も分かってない。彼のような立場の人が脱原発を目指すのなら、脱原発までの現実的なシナリオ作りでもすべきでしょ。

これ、「最低でも県外」って言った時と同じだね。物事をシンプルに捉えすぎて、「出来る」と思い込み、それで突っ走る。その後、色々と事情が明らかになると、そんな単純じゃなかったことに気付いて手詰まり。

まあ、いつもの鳩山さんのパターンだけど、当然、政治家としては信用に値しないわけで。

一般のデモ参加者が鳩山さんの参加を喜んだのかどうか知らないけど、彼の「最低でも県外」発言を覚えてる人なら、手放しで喜べないでしょ。

2010年3月 5日 (金)

「難しい」とか「困難」とか

朝のNHKを見ていたら、「今年開催されるCOP16で議定書の採択は困難」という見解を議長が示した、というニュースをやってました。

ご存じのように、日本語で「困難」とか「難しい」とか言う時はしばしば、「不可能」「無理」「やる気なし」といった意味を持ちます。

ですから、我々が一般に「議定書の採択は困難」という見出しで受け取るイメージは、「ああ、採択は無理なんだ」でしょう。少なくともかなり悲観的に捉えると思います。

ところが、そのニュースでの議長のインタビューを見ると、必ずしも「不可能」「無理」「やる気なし」ではないようです。去年のCOP15での反省点を踏まえて、前向きに取り組んで行く姿勢が見えるように感じました。

おそらく英語で行われたであろうインタビューで、議長さんはdifficultとかdifficultyとかいう単語を使ったのかもしれませんが、それをそのまま「困難」と訳して見出しにまで使うと、随分とイメージが異なってくる可能性があります。

実際、「困難」はあるのでしょうが、前向きさは失っていないようなので、日本語的に「困難」とだけ使うのは、あまり適していないと思われます。

このような例は言語によるコミュニケーションギャップと言って良いのでしょうが、翻訳されていても、あるいは翻訳されたからこそのギャップも存在しうるわけです。

以前、同時多発テロのあとのブッシュ当時大統領のスピーチで、犯人達に対して「punish」という単語が使われていて、字幕が「法の下で裁きを」となっていたのを、「それは違うだろ!」とツッコミを入れながら見てましたが、翻訳を100%信用してはならない、ということだと思った次第です。

マスメディアによるバイアスの他に、翻訳そのものによる不正確さも存在するのですから、翻訳物のニュースは慎重に解釈しなければなりません。

まあ、いちいち原典に当たるわけにもいきませんが、気になったらググってみると、ブログなどで異論を読めたりもしますからね。

2009年10月27日 (火)

民主党政権をめぐる座りの悪さ

おちゃらけた話はTwitterで、ここではマジメ路線。

なんてことは考えてませんが、結果的にそれに近い傾向にはなるやもしれず。

なんか、みんなの座りが悪いように映るんですよ。民主党政権をめぐる賛否両論が。自分のことは棚にあげてますけどね。

支持派の人は、ヤバそうな問題から目を背けて能天気っぽく見えるし、反対派の人は揚げ足取りっぽいことも言うし、マスコミはもっと追求すべきでは、という問題を軽く扱っているような気もするし。

もちろん、上に挙げたことは全員に当てはまるわけじゃありませんが、なんとなくそんな感じ。

自民党政権の時は、支持でも不支持でも、賛成でも反対でも、もう少し立場が明確だったような気がするので、今の状況は「座りが悪い」と感じられるんですよね。

日本中で、今の状況に慣れてない感じ。ま、みなさん徐々に落ち着いていくんでしょうけど。

細川政権の時って、こんな風には感じなかったけど、それは国民全員が一時的政権交代だと思ってたからでしょうかねぇ。

2009年10月22日 (木)

予算額と個人評価

民主党政権になって、色々な変化が見えて来ていて、もちろんそれらには、良い方向への変化と感じるものもあれば、悪い方向への変化と感じるものもあります。

個人的に良い方向と思っている事の代表は、行政の無駄遣いが色々とあらわになって来ていることです。個別個別にはムダなのか必要なのかの議論があるものもありますが、見直しの傾向があること自体は評価してもよいと思ってます。

行政が無駄遣いをして、そしてそれを改められなかった理由として、広く言われているのは、「自分で稼いだ金じゃない」「前例通りの事なかれ主義」「年度毎の予算使い切り主義」「天下り先確保」などが言われています。

それらは当然、無駄遣いの主要な原因になっていると思うのですが、官僚の世界では「大きな予算の仕事を担当するほど偉い」という評価基準があって、それも無駄遣いに繋がっているんじゃないか、とも思います。

お役所の人事考課制度は知りませんが、「予算10億の仕事はカス、100億で並、1000億を担当して出世コース」みたいな評価があるのではないかと。

民間企業でもそういう部分がないとは申しませんが、もっと大きいのは「売上1億の営業よりも、10億稼ぐ営業が偉い」です。営業だけではなく、その商談に関係した部署の人間に対しても、「1億よりも10億が偉い」です。当たり前の評価ですね。つまり、お金を使うことよりも、稼ぐ事が評価の根本にある、ということです。

もし、お役所において「予算10億の仕事はカス、100億で並、1000億を担当して出世コース」的な、予算を多く使う方が個人評価も高くなるような運用がされているなら、そりゃあ無駄遣いなんてなくならんでしょう。

組織における人間の行動は、評価システムや評価基準で大きく左右されるのは自明のこと。無駄遣いを減らすことに限らず、「○○しよう」という時には、それに連動した個人評価の仕組み(ペナルティも含め)も考えてこそ、本気で「○○しよう」になるわけです。

2009年10月 5日 (月)

前例がない

新内閣になってから「政治主導」などと言われて、官僚と閣僚の間であれやこれやの動きがあることが報道されています。

某テレビ番組を見ていたら、両者が参加しての組織改革の会議の中で、とある官僚が(字幕には「官僚」とだけ出ていた)、「前例がないから」ということを理由にして、何やらしぶっている様子が放送されていました。

その番組において「恣意的な編集によって本来の発言意図が歪められていない」と仮定すると、やはり役人の世界では「前例がない」は立派な理由になるんだ、と思う次第です。

テレビカメラが回っている前で「前例がない」ですから、それをまずい発言とは思っていない、ということでしょう。

すごく幸せなことなのかもしれませんが、私はここ20年近く、「前例がない」を理由に後ろ向きなことを言わないところで仕事をしてきました。仮に誰かが「前例がない」と言ったとしても、誰もマトモに取り合いません。「そんなのは理由にならない」の一言で終わりです。

むしろ、「前例がない」けど良いこと前向きなことに関しては、関係者のモチベーションは明らかに上がります。社内に「前例がない」だけではなく、「業界初」「日本初」みたいなことをやろうとしているのですから、当然といえば当然。それが成功するかどうかは分かりませんが、基本的には楽しい仕事になります。

仕事上で付き合いのある会社には、「前例がない」を言われることはありましたし、それで仕事が難航することもありましたが、それは「(申し訳ないけど)前例がない(から、難しいんです。ごめんなさい)」的なニュアンスであって、「前例がない」を振りかざすような感じではありませんでした。

その方も、社内では堂々と「前例がない」で、社外の人に対しては、それがそのまま通用しないと思い、下手からの物言いになっているのかもしれませんが、そうであっても「前例がない」の後ろめたさを自覚しているだけまともではないかと思います。

「前例がない」ことはしばしば、それを行うに当たって、人、物、金、時間を大きく消費します。もしそれが問題だとしたら、「前例がない」ではなく「人が足りない」「予算がない」などと言えば、まともな議論になります。そういうことをきちんと考えずに「前例がない」で済ますのは、流行の言葉で言うなら、思考停止でしょうね。

私の置かれた環境が幸せすぎたのか、官僚の「前例がない」発言が世間から乖離しているのか、判断は保留しますが、テレビカメラの前でも「前例がない」と言うフレーズを使えるということは、相当に重傷なんだと思わざるをえないのでした。

2009年8月31日 (月)

責任の取り方と本の売れ方

麻生さんは衆議院選大敗の責任を取って自民党総裁を辞任するとか。当然でしょうね。

ところで、幸福実現党総裁の自称エル・カンターレはどうやって責任を取るんでしょうか?

エル・カンターレですから、責任とかなんとか、そういうことを超越した存在なのかもしれませんね。下世話なことを言ってすみません。

「責任を取って総裁を辞任します」でも「幸福実現党を解散します」でも、はたまた責任を超越していていても、衆議院選の結果は結果で、それが全てを語っているわけです。

日本国民には誰でも、被選挙権もあれば、政党結成の自由もありますが、これだけ多数の候補者を擁立して総コケしたのは、単なる茶番劇と言うには豪快すぎます。

ところで、本屋さんにエル・カンターレの新刊本が並ぶと、いつもベストセラーの上位に入ってます。かなりの「人気作家」という感じです。

そういう「人気作家」が総裁をしている党なら、比例代表で1議席くらい取っても不思議ではないと思うのですが、現実には惨敗です。

「人気作家」と惨敗のギャップからの個人的想像ですが、エル・カンターレの新刊本って、1人が10冊位買っているってことなんでしょうかねぇ? 一店舗でまとめ買いするとバレるので、あちこちの書店で1冊ずつ。

ありそうな話だなあ。

2009年8月30日 (日)

本日は開票日です

今回の衆議院選、私はすでに期日前投票を済ませました。

期日前投票のために市役所に行くと、なんちゃら申請書を書かせられるんですが、何のために申請書が必要なのか、さっぱりわかりませんでした。

期日前投票の理由にチェックする欄があるのですが、およそ考えうる理由は網羅されていて、どこにチェックしようとかまわないわけで、どーせほぼ全員に期日前投票を「認める」んだから、意味のない書類なんてやめてしまえば良いのに、と思った次第。「認める」ってのも妙な感じです。なんちゃら申請書よりも、本人確認の方が100倍重要かと思うんですけどね。

今朝のニュースによると、有権者の10%以上が期日前投票を行ったとか。最終的な投票率が仮に50%だとしたら、投票の1/5が期日前ということです。期日前の投票が増える傾向は、今後も続くでしょう。

この際、もう「投票日」という概念を捨てても良いのではないかと思います。「投票期間」があって、その間ならいつ投票しても良い、という考え方です。もう現状でも、それに近いわけですけどね。

現状からさらに「投票期間」的方向に進めようとすると、投票所の設置の問題とか、そこに配置する人員の問題とか、色々と考えられますが、多少の経費増だとしても、それによって投票率が上がるなら、「投票期間」というのは意味があるんじゃないかと思います。

そうなると、「○月○日は衆議院議員選挙の投票日です」なんていうフレーズは意味を持ちません。

もちろん、「○月○日は衆議院議員選挙の開票日です」ということになります。投票日という概念が消え、開票日という概念が生まれるのでした。めでたしめでたし。

2009年8月19日 (水)

要求

先日、都内某所を歩いていたら、この度の衆議院選に立候補すると思われる人か、その関連団体の人が演説をしていました。

通り過ぎただけなので、演説の中身をよく聞いていたわけじゃありませんし、その人が出しているのぼりや看板を見たわけでもありませんが、私はその人が共産党関係者であることが分かりました。

これから書く事は、日本共産党に対する批判でも応援でもありません。ちょっとしたトリビア的に弄っているだけです。

私が何故、演説の一節だけで共産党と分かったのか? もちろん、「我々、日本共産党は〜」などというセリフがあったから、という当たり前すぎる理由ではありません。

彼(男性でした)が「要求」という単語を使ったのですが、その「要求」が共産党風アクセントだったからです。

「共産党風アクセント」なんていうモノが存在するのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょうが、少なくとも「要求」という単語には「共産党風アクセント」が存在していると思われます。ここで言う、アクセントとは高低アクセントのことです。

我々は普通「要求」を「よう→きゅう→」というアクセントで発声します。ところが、共産党関係者は「よう↑きゅう↓」というアクセントなのです。

私が最初に「よう↑きゅう↓」に出会ったのは、大学に入学した直後でした。共産党系サークル(民青同盟)の人が頻繁に「よう↑きゅう↓」を使っていて、その発声にかなり違和感を持ったので、よく覚えています。

その後も何回となく「よう↑きゅう↓」を耳にしていますが、私の経験の範囲では、その全てが共産党関連です。

共産党関係者の全てが「よう↑きゅう↓」と発声する、とか、「よう↑きゅう↓」と発声する人は全て共産党関係者、とか、そんなことは断言できないでしょうが、「よう↑きゅう↓」から共産党を連想するに充分なだけの相関関係はあるんじゃないかと思います。

なんで普通じゃないアクセントが使われているのか、その理由は知りません。そして、「よう↑きゅう↓」と発声している人は、それに違和感を感じているのかどうかも知りません。

ついでに個人的な印象を言うなら、「よう↑きゅう↓」というのは、あまり賢そうには聞こえません。もし特定の地方の方言として「よう↑きゅう↓」になっているということなら、それは良いとしても、特定の団体で「よう↑きゅう↓」というのは、かなりヘンです。

普通に「よう→きゅう→」で、いいじゃん。

2009年8月12日 (水)

悟りを開いた方は

仮定の話ですよ。

単なる仮定の話なので、ムキにならないように。ムキになると、ますます怪しいってことになっちゃいますからね。

えーと、幸○実○党の総裁、という方がいらっしゃいますよね。何でも、自称エル・カンターレだとか。のだめじゃないですよ、ルチャリブレのレスラーでもないですよ。何だか分からない方は「エル・カンターレ」でググってみましょう。私はそれでも分かりませんけど。

でね、そのエル・カンターレさんなんですが、仮にですよ、仮にの話です。

実体はエル・カンターレだとしても、人間として生を受けているわけですから、ホモサピエンスとしての生理はあるわけでしょう。で、エル・カンターレさんはどう見ても成人男子であります。

エル・カンターレさんに年齢などあるかどうか知りませんが、見た目で判断した年齢からすると、あの年代の男性の何パーセントかは、いわゆるハゲに悩んでいると思うんですよ。

もし仮に、エル・カンターレの肉体がそういうことになったとしたら、どうすると思います?

エル・カンターレは高次元意識体だか何だかですから、いや、よく分かりませんが、悟りを開いた方で、凡人とは違うんでしょうから、そのハゲをヅラで隠したりはしませんよね? ねっ?

どうしてこんなつまらない仮定の話を思い付いたかというと、それは言うまでもないですよね。

2009年7月13日 (月)

五十日とか年度末とか

世の中には色々なムダがあります。行政のムダなんてのが最近は注目されてますが、日本全体のシステムとか慣習とかにもムダはあります。

私が感じているのは、五十日(ごとおび)とか月末締めとか会計年度とか、そういった節目を多くの企業、団体で共通にしているのが大きな社会的なムダを生んでいるのでは、ということです。

五十日、月末、年度末といった言葉から連想するのは、忙しい、残業、渋滞といったことではないかと思いますが、その様な状態は決して活動の効率が良いとは言えません。

通常業務以外に締めの業務をしなければならない時、他の会社も同じような状況ですから、何かを問い合わせた時の回答も遅れ気味でしょう。その時期には、経済活動も渋滞しているのが常態と化しています。もちろん、交通渋滞も時間的な非効率を生みますし、燃料をムダに消費します。

決済を五十日に行わなければならない、普遍的で合理的な理由などありません。特定の企業にとって五十日が都合が良いことはあり得るでしょうが、五十日自体には合理的な意味はありません。五十日決済を慣習を改めて、決済の日を全体的にばらすことで、五十日の非効率はかなり改善されるのではないかと感じます。

日本の企業の多くが会計年度を4月から翌年の3月までに設定していますが、これだって本来は合理的な意味はありません。

学校関係は卒業進学の時期を合わせる必要性はあるでしょうが、一般企業の会計年度など、どう設定したってかまわないはずです。もちろん、「みんな4月-3月」を前提にしているようなシステムが現存していれば、それを変えるのに色々な面でのコストはかかるでしょうが、本来、会計年度をみんなで同じにする必要なんてありません。会計年度の途中で新卒が入社しても何の問題もないでしょうし、取引先と会計年度が違うことだって問題ありません。

みんなで別々の会計年度を採用したら、2月や3月の様子は、今とは随分違うものになるんじゃないかと思われます。

とりあえず、国と都道府県と市町村は会計年度をずらしたらどうか、なんていう乱暴なことも思ってしまいます。国は1月-12月で、都道府県は4月-3月で、市町村は7月-6月とか。そうすると色々な不都合もあるでしょうが、それは本質的不都合というよりは、出来上がってしまったやりかたを変えたくないという不都合でしょう。

次は行政主導で大企業(体力があり、影響も大きいから)の会計年度をばらけさせます。「みんな4月-3月」からの脱却です。不公平のないように、一時的に「4月-3月会計年度」に課税したりとか。いや、これも乱暴なアイディアですけど。

要するに、白紙の状態から「会計年度や締めはみんなばらばら」という前提でものごとを考えれば、それに問題はないでしょし、締めの時期の様々な「集中」による非効率が劇的に改善され、広い意味での生産性も向上するのでは、と思います。

五十日や年度末を共有していることの悪影響をきちんと調べたわけじゃありませんし、仮に会計年度をばらばらにしたとして、その効果もしっかりとシミュレートしたわけでもありませんが、感覚的には、五十日とかみんな同じ会計年度とかを改める効果は、かなり大きそうに感じます。

ほんと極めて感覚的な話なんですが、真面目に研究している人もいるかもしれませんね。